フロード国の襲撃から早数ヶ月後経ったある日のことである。 万年曇天の幽霊島にしては珍しく青空が見える。 まるで神がこの日を祝福しているかのようだ。 いや、もしかしたら本当に神は今日と言う日を祝福しているのかも知れない。 なにせ今日は聖女エクラと魔族の王グランツの結婚式だ。聖女の晴れの舞台を神が祝福していても何の不思議もない。 島中が華やかで、賑やかな雰囲気で満たされている。 いつもはジャガイモ畑で緑一辺倒の地上でさえも、ささやかながら飾り付けをされていた。 島中がそんな幸せな空気の中、ミオは一人バタバタと島中を走り回っている。 エクラとグランツの結婚式ならば当然やらせてほしいと裏方のリーダーに立候補した彼女は、祭祀場やパーティー会場を東奔西走していた。 最近グリモワールとグランツが発明した通信魔法道具を腕にはめ、それで島のあちこちへと連絡をとりながらミオは結婚式の会場から倉庫へ向かう。 「ワインの数が足りないんです。持って行きたいけどそっちに台車ありますか? え? ない? 分かりました。ワインは一ケース用意しておいてください。 もしもし第二倉庫? 台車はそちらにあります? じゃあ今すぐに取りにいきます」 通信先の相手とそんなやり取りをしながらミオは倉庫に向かう。 この島に来た初日は迷子になっていたのが嘘のようだ。今ではまるで何十年も暮らしていたかのような慣れた足取りでミオは島を走る。 「おっとミオ、探したぜ」 忙しく走り回るミオを誰かが後ろから呼び止めた。ミオが足を止めて振り返ると、そこにはシックなパーティードレスに身を包んだアルマが立っている。 「アルマさん、どうしたの?」「あぁこれからブーケトスをやるから会場に来いってさ」 ブーケトスとは、レイの世界では有名な結婚式の儀式なのだそうだ。花嫁が花束を投げてそれをキャッチした未婚女性が次の花嫁になると言う言い伝えがあるらしい。 それを聞いたエクラが「面白そうだからそのブーケトスをやってみたい」と言い出したのである。 「いや私は別に……それに今忙しいし」 露骨に嫌な顔をするミオにアルマも苦笑いしてしまう。 レイがこの島に帰還した後からミオは親しい者に対して敬語を使うのを止めた。 その様子は貴族の女どころか女らしくもないが、どこか萎縮して遠慮がちだっ
そんな臆病なミオを見下ろしながらレイはきっぱりとこう告げた。「お前が諦めたとしても、オレはミオに手を差し伸ばし続けるよ」「!」「絶対、諦めない。オレはそうやって勇者になったんだから」 それは眩いくらいの勇者の輝きであった。 ミオが憧れ続けた勇者その人が、今ミオに救いの手を差し出している。 「私は……っ!」 変わり者だからと、愛されなかったからと逃げ続けていたのは他でもない自分自身だった。 変わりたい癖に、何かあったらすぐ諦めて逃げてしまうそんな弱い自分を、勇者レイ・シュタインは真っ直ぐに向き合ってくれている。 「来い、ミオ・エヴェーレン!」 それでも恐い。 涙を零し、呼吸を乱し、頭を振って身を捩っても逃げられないのは分かってる。 本当はもう大丈夫だととっくに分かっている。 レイは全て受け止めてくれると分かってるのだ。 でも恐い。 「私は……っでも、私は……っ!」 「頑張れミオ」 レイのその一言がきっかけだった。 だってその言葉は独りぼっちのミオがずっと自分に言い聞かせ続けてきた言葉だったから。 「私は……私……は、あなたと……怜士さんと、皆でこの島で暮らしたい……!」 みっともない嗚咽混じりの声でミオはそう叫んだ。 ようやく言えた。 自分自身の、そう他ならぬミオ自身の願いを、ちゃんと口にできたのである。 「ずっと一緒に生きたい、嫌われてもいい、その結果怜士さんを悲しませることになったとしても、怜士さんを離したくない。憎まれてもいい、いや、本当は嫌だ、私と一緒にいて、そばにいて、」 一度出てしまった言葉はとめどなく口から溢れて止まらない。嗚咽と共に気持ちを吐き出してぐしゃぐしゃのみっともない顔のままミオはレイにしがみ付くように抱き付いた。 ミオはずっと独りぼっちだった。だから独りぼっちでこれからも生きていけていた。生きていけたはずなのに、もう駄目になってしまった。 もうレイなしで生きていけない。彼のいない日々がこれほど辛いなんて想像も出来なかった。 縋り付いて泣き出すミオの華奢な体をレイがぎゅっと抱き締め返す。その腕も胸も温かい。 ミオが失いたくない、本当に大切な存在が今ここにある。 「うん。ありがとう。オレも同じ。ミオとこれからずっと一緒に生きて行きたい」 その言葉
それは誰にも言えなかった、ミオの本当の気持ちの吐露である。 「……私、本当は冒険者になりたかった。世界中を旅して世界中の綺麗な景色や綺麗な物を見たかったんだ。でもその隣に誰かいるなんて全然考えたことなかった。家族も誰も、私は誰とも分かりあえなかったから、一人が普通だったから」 敬語をやめ、独り言を言う時のような口調でミオは語り出す。とってつけたような女言葉を使うこともない。 嫌いなのだ。「〜〜だわ」とか「〜〜かしら」と言う言葉遣いをする度に胸の辺りがむずむずして子供の頃から敬語を話していたのである。 やっぱりこんな言葉遣いからして自分は変わり者だったのだ。誰にも理解されることもない。ミオはずっと独りぼっちだった。それが当然だと思っていたのである。 「だから一人で、何処までも旅をしてみたかった」 レイは黙ったままじっとミオの話を聞いている。漆黒の瞳はミオを見守るように見つめていた。 「でも私は冒険者になる体力も、魔法も何にも持ってなかった。それでもどうしても諦められなかったんだ。きっと本当は、本当にしたかったのは冒険じゃなったのかも知れない。うん、きっと。あの家じゃない、家族も何にも関係ない何処かへ行きたかっただけなのかも」 何処かへ行きたい。 エヴェーレンの家と隠れ家しか世界を知らなかったミオにとって、それは酷く曖昧な、それでも切実な願いであった。 鳥たちから勇者の話を聞く度にその曖昧な願いに鮮やかな色がついていくような気がしたのである。 「うん。きっと結婚先とかでもなくて、私が心から笑っていられる、そんな場所に行きたかったんだ」 そう言いきってミオは口を閉ざす。 次の言葉が出てこないと悟ったのか、レイは更に質問を重ねた。 「うん、分かった。じゃあその上でさ、これからミオはどうしたい? どうなりたい?」 先の冷ややかなそれとは真逆の優しい声色でレイが問いかけてくる。 「それは……」 だがその言葉にミオはピタリと時が止まったかのように固まってしまう。 洞窟都市の風が一陣ミオとレイの間に吹き抜けていった。 だって、そんなの、言えない。 「私の願い……は勇者の嫁として……」 だからこう言うしかない。 とっくに壊れ果ててしまった「勇者の嫁」の殻を無理矢理被るしか出来ないのだ。 「そ
そしてレイは再度口を開く。 「分かった、じゃあ質問を変える。本当はオレを捨てたかった?」「は……っ?」 ピシリ、 その問いを投げかけられた瞬間、ミオの中でまるでガラスにヒビが入ったような音がした。 なんで。 何で分かったの? 「な、にを言って……」「オレがお前の親父さんみたいにいつかミオのこと捨てるんじゃないかって不安になったんじゃないのか。いつか捨てられることに怯え続けるくらいなら先にオレを手放した方が楽になれるって、そう思ったんじゃないか?」「ち……っ」 ピシピシと心のあちこちでヒビが入る音が響く。 それはレイに本心を暴かれたせいで、「勇者の嫁」と言うミオが創り上げた素晴らしく美しい殻(たてまえ)が壊れていく音であった。 ミオは否定しようとしたが言葉が出て来ない。目まぐるしく顔色を赤くしたり青くしたりしながら彼女は口をはくはくとさせるだけである。 その様子を肯定と捉えたのかレイがこれみよがしな盛大な溜め息を吐いた。 「図星か……」 ミオらしいや、とレイは自嘲気味に笑う。そんな彼にミオは二の句が告げることが出来ない。ただ彼の顔を見つめるだけしか出来なかった。 「でもまあ、帰ってきちまったからもう無理だな。オレはもうお前から離れないよ」 ふんと鼻で笑うレイの顔は冷たくて、まるで初めて会った頃のような顔であった。それでも言葉は酷く甘ったるい。 「残念だけど、お前が捨てたくてもオレは絶対に離れない。死ぬ時も道連れにしてやる」 そう酷薄に笑ってミオの青くなっていた頬を両手で包む。甘い言葉のはずなのにその真剣な表情や声色の異様さに思わずミオはゾッとしてしまう。 「……っ」「はっ、諦めろ」 ミオは観念したように唇を噛み締めて俯く。 レイの言う通り確かに、その気持ちはミオの本心であった。 いや、本心の一部である。 勇者の嫁として、と綺麗事を言いながらもその実、いつか捨てられるのが怖かったのだ。 父と違ってレイはミオに優しかった。自分に向けられる笑みは温かな愛情と慈しみに満ちていた。 それが失われてしまうことがミオにとって本当に怖かったのである。 もし彼の優しさを失ってしまったら、嫌われてしまったらミオはきっと耐えられないと本気で感じたのである。 それが酷く恐ろしかった。 いっそ手放し
「私は……私の、本当の気持ち……?」 そう鸚鵡返しする。そうだ、とレイは静かに続け、そしてミオの頬をまだ濡らしていた涙をゆびで拭った。 「泣いてた?」「……いえ、これは」 レイの指摘に慌てて涙を乱暴に自分の指で拭き直す。そしてミオはレイから視線を外そうとした。しかしレイの鍛えられた腕はミオの肩を掴みミオをけして逃がそうとはしない。 「なあ、本当はどうしたいんだよミオ。お前自身の望みはなんなんだよ。オレはそれが聞きたい」 自身の肩を掴むレイにそう問いかけられて、ミオは視線を泳がした。 自分の望みなんて決まっている。 ミオはレイの顔を見つめ返す。 「それは怜士さんが……幸せになること、です」 だがその言葉をレイはあっさりと一蹴した。 「それは違う」「は……?」 自分の気持ちを簡単に否定されてしまい、ミオも思わずムッとした表情になってしまう。 「違いません」 思わずきつい物言いになってしまったが、レイは全く動じる様子はない。こんなにヒリヒリするほど険悪な雰囲気は初めてこの島で出会った時以来、いや今回はあの時以上に刺々しい空気であった。 「いいや違う。それは勇者の嫁って言葉に格好つけてるだけだろ。人に見栄張って立派な良い人ぶって、それで自分は素敵な人間なんだって思いたいだけなんだろ。 そんでそのまま死にたかっただけなんだろ! お前の自殺にオレを利用するなよ!」 レイの言葉に虚を突かれたようにミオの黄昏色の瞳がこれでもかと見開かれてしまう。 世界がしん、と音を失ったように静まり返ったような気がした。 「……そんなこと……思ってない……」 思ってもいない言葉を浴びせられ、青い顔したミオが思わず唇を戦慄かせる。しかしレイの舌鋒は止まらない。 「思ってるよ! お前は家族にこんなところに捨てられて、親父さんにも酷いこと言われて! だから死にたかっただけだろ!」「違……っ違います!」 必死にミオは否定する。自殺したいだなんてこれっぽっちも思っていなかった。 ましてそのためにレイを利用するだなんて考えてもいない。 なんでそんなことに言われなればいけないのだろうか。 「じゃあミオは本当は何がしたかったんだよ、ミオはどうしようと思っていたんだよ」 冷ややかに問いかけられるも混乱した面
ミオの涙が地面にぽたりと落ちたその時である。 レイの声が聞こえたような気がした。 都合の良い幻聴だと泣きながら思わず自嘲してしまう。 しかし、突然ドカンと言う大きな爆発音が洞窟都市に響き渡った。 どうやら以前二人が過ごした遺跡の辺りが発生源らしい。 「え……?」 ミオは頬を伝う涙もそのままにそのぐしゃぐしゃの顔を上げる。 それは、幻聴なんかではなかった。 「ミオーッ!」 爆発音と同じくらいの声量が、聞き慣れた声がミオを呼ぶ。 間違えようもない。 レイの声だ。 (どうして……?) 戸惑うよりも先にミオの体は反応してしまう。 さっと立ち上がると、ミオは弾かれたように声が聞こえた遺跡の方へと駆け出していた。 大地を二本の足で蹴り、涙を乱暴に拭いながらも真正面を見据えてミオはレイの声がする方へと無我夢中で走り続ける。 「ミオーッ! 何処だー!」「怜士さん!」 大声で名前を呼ばれ、ミオも負けじと大声を張り上げた。 何も考えられない。 ただ耳が勝手にレイの声を探って、足が勝手にレイの方へと走り続けてしまっている。 早く彼の元へと行きたい。 ミオが息を弾ませていると、視界の片隅に巨大な影が映った。その影はひゅんひゅんと空や洞窟の壁や民家の屋根を駆けてミオを目掛けて飛んでくる。 「怜士……さん」 それはやたら大きなリュックを担ぎ、両手に山程の荷物を手にしたレイであった。 感動の再会を喜ぶより先にミオはその大荷物に驚き固まってしまう。 背中に担いだリュックはよく見れば大きなリュック一つだけではないのだ。いくつものリュックを紐やベルトで固定して大岩かと思うほどの大きさを平然と担いでいるのである。 「どうしたんですかその荷物……」 ミオの疑問にレイはこともなげに答える。 「これ? 向こうで色々必要なものを買ってきた。政治の本とか、畑の資料とか、植物の苗とか、肥料とか、必要なもの、全財産はたいてありったけ」「どうして……」 呆然とした表情でミオはそう呟く。問いかけたわけではないのだが、レイは淡々をした表情を浮かべながら次々と荷物を下ろしていく。 「まだ時空の揺らぎがあったから、もしかしたらこっちの世界に帰れると思ったんだ。能力もまだ使えたし、だから聖剣の力で無理やりこじ開ければいける